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ここはモルドバか、ロシアか、はたまた独立国家か【トランスニストリア】

by Uenishi Yukie / Уэниши Юкиэ 9/03/2018 カテゴリー


ここはモルドバか、ロシアか、はたまた独立国家か【トランスニストリア】


世界中がトランスニストリア(※)未承認国家とされる、モルドバとウクライナとの国境沿いの地域をモルドバの一部だと思い、トランスニストリアにいる人はこの地域をロシアの一部だと思っている。ロシアはトランスニストリアを独立国家だと考えているようだが、それにもかかわらずガスを無料で供給している。




とはいえ紛争には短いが歴史がある。すべては1988年、66人のモルドバ人作家たちが、公用語をロシア語ではなくルーマニア語であること、さらにルーマニア語で書くことを認めるよう要求したことから始まった。この要求は、約90%がロシア人で構成されている ティラスポリ(※)トランスニストリアの首都。世界的にはモルドバ東部の都市だとみなされている の住民にとって、とても納得できるものではなかった。

結局、ルーマニアの仲間入りを果たしたかったモルドバと、ソヴィエト連邦に残りたがったトランスニストリアとの間で対立が始まった。トランスニストリアでは投票が行われ、住民の91%が独立を希望したのだった。お互いに言い合いをしたまま年月が過ぎ、次第に武器を用いた小競り合いとなっていった。トランスニストリアの人々は彼らを支配したがったモルドバから、自分たちの町を防御した。小競り合いは、激しい銃撃戦となったり、時に静寂を伴い落ち着いたりを繰り返していた。

1991年、ソヴィエト連邦が崩壊。モルドバとトランスニストリアとの間で銃撃戦が再開した。トランスニストリアの領地では、住民たちを武器で援護した14名のロシア人兵士たちが残ることになった。

そんななか、1992年、レベジ将軍(※)90年半ばにチェチェン戦争で指揮を執った人物。その後、ロシアのクラスノヤルクス州知事となった。2002年逝去。 がこの地に訪れ、衝突している全国民と会い、そして言った。「もし、あと一発でも私が銃声を耳にしたら、私はティアスポラで朝食をとり、キシニョフで昼食を食べ、ブカレストで夕食を食べることになるだろう」と。人々はその言葉を信じ、この紛争は幕を閉じたのである。

今、トランスニストリアでは2つの言語で表札が書かれている。それも、モルドバ語(※) ルーマニア語 の表記はキリル文字で書かれている。モルドバでは、しばらく前からローマ字で綴られるようになったにもかかわらずだ。

トランスニストリアにおける公用語は、一般的に3つある。ウクライナ語もそのひとつ。とはいえ、ウクライナの都市オデッサからトランスニストリアまでは、少なく見積もっても100km以上も離れているというのにである。

主要な出来事は、 ドゥバサリ県(※)モルドバとトランスニストリアをまたぐ地域ベンデル(※)現在はトランスニストリアの統治下に置かれている町。ドニエストル川を国境とすれば、地理的にはモルドバ の町で行われ、ベンデルのいくつかの家では、あの紛争の痕跡が残っている。

ベンデルとティラスポラの間には、約8キロの距離があり、違う地域だと考えられている。そのため、ロシアを介した監視者がいるのだ。


いくつもの国の文化が入り混じるトランスニストリア。紛争は終わったものの、未承認国家でありながら、ひとつの国として機能を果たしているように見える。次回はこの地域について、自分の経験を書くことにしたい。

戦いの跡残る未承認国家を、北から南まで【トランスニストリア/沿ドニエストル】


Sergey Dolya
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Uenishi Yukie / Уэниши Юкиэ

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1992年11月17日、東京都出身。大学時代にロシア語を学び、現在は東欧へ移住。

Я родилась в районе Токио в Японии, в 17.11.1992 г. В университете 4 года занималась русским языком. Сейчас я живу в Восточном Европе.